フェルトセンスについて

フェルトセンスとは

 フォーカシングの重要なキーワードに、「フェルトセンス」があります(おそらく、最重要キーワード、かもしれません)。フォーカシングを提唱したジェンドリンはフェルトセンスを、からだの内部でのある特別な気づき(『フォーカシング』)とか、状況や気がかりや生活のある側面についてのからだの感じ(『フォーカシング指向心理療法』)などと説明しています。たとえば、好きな人のことを考えた時に胸が温かくなったり、気の重い仕事のことを考えるとお腹のあたりに本当に重い感じがしたりするのは、フェルトセンスのわかりやすい例です。フォーカシングでは、このような、事柄や状況について私たちが感じている具体的な感覚に注意を向けていきます。そこに、その事柄の新しい側面があらわになったり、もう一歩深いところにある自分の思いや求めているものが明らかになったりするような、大事な一歩が生じる芽があるからです。

フェルトセンスを表したイラスト

©近田輝行

 とはいえ、多くのフェルトセンスは、上にあげた例よりももっと微妙で、あいまいでわかりにくいものです。フォーカシングを学んでいると、自分が感じているのがフェルトセンスなのかどうなのか、フェルトセンスって本当のところ何なのかと、よくわからなくなってしまうことがあるかもしれません。特に昨今では、身体志向のセラピーが盛んになって、フォーカシングとは別のところで「フェルトセンス」という用語に出会うことも増えているように思いますので、幅広くいろいろなことを学んでいる人ほど、フォーカシングの中でフェルトセンスをつかむことに難しさを感じることがあるかもしれません。

フェルトセンスは身体の内側にあるのか

 もしあなたがフェルトセンスをうまくつかめないなと感じているなら、ひょっとしたらその理由のひとつは、「フェルトセンスは身体的なもの」という説明にあるかもしれません。フォーカシングでは「身体の内側に注意を向けてください」というような言い方をしますので、私たちは身体の内側にフェルトセンスというものを探そうとすることがあります。しかし、フェルトセンスは本当に、身体の内側にあるもの、なのでしょうか。

 ジェンドリンは『フォーカシング』の中で、自分の生活において大きな意味を持つ人を思い浮かべることを例にとってフェルトセンスを説明しています。私たちはある人のことを、意識的にその特徴を数え上げるような形で思い浮かべはしません。名前を聞いた瞬間に浮かぶのは、その人の全体の雰囲気のような、存在感のような、その人らしさのような、なにか言葉にはしがたいものです。ジェンドリンは、これがフェルトセンスだと言います。しかしある人の「その人らしさ」を感じるために私たちが自分の身体に注意を向けているかというと、そういうわけではありません。

 ジェンドリンは『体験過程と意味の創造』という本の中で「感じられた意味(felt meaning)」という概念を提示しています。これは後のフェルトセンスの概念につながるものですが、ここでは「身体」は強調されていません。「感じられた意味」とは、私たちが言葉を聞いたり話したりする時にその言葉に感じられている、実感としての意味です。私たちは意識的に身体で感じるのではなくても、ある言葉に、ある人に、ある事柄に、実感としてなんらかの意味を感じ取っています。その実感として感じられた意味の感覚に触れることができている時、私たちは言葉や人や事柄のフェルトセンスに触れることができているのです。ですから、「身体に注意を向ける」というところで戸惑っている人は、身体ということはいったん横にどけておいてもいいかと思います。

 とはいえもちろん、身体に注意を向けることに意味がないわけではありません。身体に注意を向けることは、フォーカシングをする上でとても役に立ちます。私たちは身体に注意を向けていない時でも、ある意味で身体的に(「私」という有機体の全体で)、自分を取り巻く事柄や状況を感じ取っているからです。フェルトセンスは、この、身体が事柄や状況を感じ取るという、その接触面で生じます。

 たとえとして、「肌ざわり」について考えてみましょう。私たちが手で何かに、たとえば椅子に触れる時、肌ざわりの感覚が生じますが、さて、肌ざわりは、椅子の側にあるでしょうか、それとも手の側にあるでしょうか? もちろん、どちらとも言えません。それは椅子の肌ざわりであると同時に、私たちの手に感じる肌ざわりでもあります。同じようにフェルトセンスも、状況のフェルトセンスであると同時に、私たちの身体に感じるフェルトセンスでもあります。

 私たちは肌ざわりに注意を向けることができますが、では「肌ざわり」というものがものとしてあるのかというと、ちょっと微妙ですよね。もちろん「肌ざわりがそこにある」と言うことはできますが、より正確には「肌ざわりを感じる」という物事への関わり方(プロセス)があって、肌ざわりはそこではじめて生じてくるのだと言うのが正しいでしょう。同じようにフェルトセンスも、フェルトセンスというものがはじめから客観的にそこにものとしてあるというよりも、「フェルトセンスを感じる」という物事への関わり方があって、そこではじめてフェルトセンスとして浮かび上がってくるのだ、と考える方が、事実に近いのではないかと思います。

「フェルトセンスを感じる」という関わり

 では、「フェルトセンスを感じる」という物事への関わり方とは、どのような関わり方なのでしょうか。

 キャンベル・パートンという人は、フェルトセンスは身体の中にあるものではなく、そこに問題はあるけれどまだそれを表す言葉が見つからないという状態のことだ、と論じています。大事なのは、「まだわかっていないけれど何かがそこにある」という感じ、何かしらの感じがそこにあるけど(ありそうだけど)まだ言葉になっていないという感覚なのです。この、感じられているけれどまだ言葉になっていない、あるとわかるけど何なのかよくわからないというポイントを、「エッジ(edge、辺縁)」と呼ぶことがあります。

 私たちは、自分がすでにわかっていると思うものを感じる時には、豊かにその意味の実感に触れることができません。椅子はただの椅子、部屋はただの部屋、怒りはただの怒りです。もし私たちがフォーカシングのセッションの中で「これはいつものおなじみのフェルトセンスだな」と考えるとしたら、実はその時には、もう「フェルトセンスを感じる」という物事へのかかわり方からは離れてしまっているのです。しかし、物事や自分自身の気持ちが、まだ自分のよくわかっていない何かとして目の前に現れる時には、私たちはそれの存在感をいきいきと感じ、その質感に豊かに触れることができます。その時私たちは、「フェルトセンスを感じる」という仕方で何かに関わっています。私たちは物事を、自分が「わかった」と思えるような枠組みにすぐに当てはめてしまいがちですが、簡単に言葉にしてしまわずしっかりと立ち止まることで、私たちはそれのエッジにふれることができます。また、フェルトセンスへの(自分自身への)問いかけも、それのまだよくわかっていない側面を浮かび上がらせて、「フェルトセンスを感じる」という仕方で物事に関わることを促してくれます。

(久羽康)

はっきりしないフェルトセンス全体の図