✦日常に存在する恐怖〜フォーカシング的態度を日常で生かす
恐怖は、日常に存在する。
2020年、コロナウィルスが世界中を席巻し、人類が「恐怖」を味わったのは、記憶という言葉を使うことを躊躇するほどには、まだまだ生々しい。
パットオミディアンは、「コロナウィルス:恐怖のフェルトセンスと共にいること」で、下記のように記している。
「私たちの恐怖は健全です。それは重要な事柄に対する私たちの反応の仕方です。」
繰り返そう。恐怖は、日常に存在する。
エボラ熱や紛争地域は言うに及ばず、コロナウィルスはもちろん、そして・・・・・・。
急に卑小な話になるが、歯医者さん。
3ヶ月ごとの定期歯科検診で、食べ物が挟まりやすくなっている箇所がみつかった。歯が小さく欠けてしまったのが原因のようだ。
「痛かったら、手をあげてくださいね~。」
「たぶん、今日は欠けた部分を軽く削って埋めるだけだから、痛いことはないと思いますけどね~。」
と、お医者さんは、どこまでも優しい。
そして、学生時代に歯医者さんでのバイト歴がある私、全くの素人という訳ではない。治療が必要なことも、通い慣れた歯医者さんの腕が確かで、丁寧な治療してくださることも、治療の予測もつくし、痛いことは起こらないのも、重々わかっている。
わかっているのだ。頭は。
キュイーンという耳につく音とともに、歯が削られる。
わかってはいるのだ。
わかってはいるのだけれど。
い、い、痛かったらどうしょう!!
痛みへの不安は、大人も子どもも関係ない。
キュイーン。
痛みは、生存を脅かされる身体からのSOSサイン。
生存を脅かされる(かもしれない)と身体が感じたら、それはそうなのだ。
日頃美味しいものを、かみくだいてくれている歯に、高音ひびく治療器具が入って、削られているのだから、身体としては、たまったものではないだろう。しかも、様子は見えない。
不安は、早々に恐怖へと変化する。
だがしかし、治療は続くよどこまでも、キュイーン。
当然のことながら、逃げ出す訳にはいかないのだ、キュイーン。
私の身体は健全だ故に恐怖あり。
まずは、怖がっていることを認めよう。どんなに知識やお医者さんへの信頼があろうとも、私の身体は、怖いのだ。
そして、恐怖から、そうっと少しだけ、距離をとってみる。そのためには、興味関心を少々。
うーん。どこがどう、怖がっているんだろう?
ヘッドレストの傾きにそって、少しだけ下に傾いた後頭部から肩周り、背中にかけて、がちがちに固く、こわばりが続いている。
うわぁ、怖いよねぇ。だって歯を削られてるんだもの。この音も、怖いよねぇ。
あら、両腕もこわばってる。腰から足にかけては、ぴーんと力が入っているぞ。
そりゃもう、こわばるの、当たり前だよ~。だって、身体の一部が、見えないところで、削られてるんだもん。治療に対応してくれて、ありがとねえ。えらいねえ。
恐怖とともにいること、15分弱。治療は、終了。
診察台の背もたれが起きるのに従って、ゆっくりと身体のこわばりが抜けていくのを感じる。開けっ放しだった口を閉じると同時に、深い呼吸を一つ。
終わったねえ。怖かったねえ。えらかったねえ。これから、もっと歯のお手入れ、一生懸命するからねえ。
再びパットの言葉を引用しよう。
「恐怖は、私が生き残るための協力者でした。それに乗っ取られずにいられる限りは。恐怖は、何度も何度も静かなパートナーになり私が思いやりを持てるようにしてくれました。」
「今日はこれで終わりです。お疲れ様でした。」と、エプロンを外してくれる歯科衛生士さん。「頑張りました・・・」とつぶやいたのが耳に入ったらしく、その通りとばかりに、笑ってうなづいてくれた。
私のつぶやきは、恐怖という内なる協力者にむかってのねぎらいだったのだけれど。
(文責 あべ)
*引用元*
「コロナウィルス:恐怖のフェルトセンスと共にいること」
Patricia Omidian Ph.D. ‘Coronavirus: Being with your Felt Sense of Fear‘ | Focusing Initiatives International
日本語訳